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2025年04月23日

80年前の4月沖縄では

80年前の4月沖縄で起きていたこと・・・

80年前の4月沖縄では


 八重岳に「三中学徒之碑」がある。
  蛇足:一中が現在の首里高校、二中が那覇、三中が名護高校。
1945.4.16 鉄血勤皇隊、通信隊の生徒90人が米軍との戦闘で命を失う
息子と同じぐらいの若者が米軍との戦闘で命を失う。

 コロナ禍で八丈島で、昆虫を探し、毎年8月には、沖縄へ行く(沖縄ー慰霊の旅)・・・と、
「歩きながら考える」ヤマザキマリの本に書いてある。


 3月26日に米軍が慶良間島に上陸して、住民の「集団自決」があった。
4月1日に沖縄本島に上陸してその日のうちに飛行場を占拠して、5日には読谷でも「集団自決」があった。

 7日米軍は名護へ(戦艦大和撃沈される)13日には辺戸岬まで到着した。
16日伊江島へ上陸して21日に伊江島を占拠した。

総務省HP
 昭和20(1945)年4月16日午前8時、米軍の上陸部隊第77歩兵師団が上陸用舟艇・水陸両用戦車を用いて伊江島の西崎海岸から上陸し、その後南海岸中央部海岸から続々と米軍部隊が上陸した。日本軍の抵抗はほとんど無く、その日のうちに城山(海抜172m)の麓から550mの地点まで進撃した。翌17日からは日本軍との壮絶な攻防戦が行われた。

 日本軍と米軍の一進一退の攻防戦は4月17日から3日間におよび、4月20日には米軍に占領され、その日の午後7時には守備隊隊長より総攻撃の命令が下り、翌午前3時頃決行され、伊江島守備隊は玉砕した。
残存する兵力は将校約10名、兵約150名にすぎなかった。
激闘の末、4月21日午後5時30分に米軍から伊江島確保が宣言された。

 また、伊江島に残っていた村民は壕や洞穴等に避難していた。戦時中日本軍の将兵には「戦陣訓」の「生きて虜因の辱めを受けず」という方針が徹底され、捕虜になる前に自決することが規範とされてきたが、軍民一体化した沖縄の戦場には、一般住民まで強要されたところから敵の捕虜になればスパイとみなして処する、という軍の方針は一般住民をも呪縛した。そのためスパイ容疑の濡れ衣を恐れるあまり、戦闘終結後も長く洞穴にたてこもって投降を拒否しつづける住民も少なくなく、日本兵からスパイ容疑で処刑されたものや、自然壕で集団自決する壕もあった。

 伊江島の戦闘による日本側の死者は、軍人約2,000名、村民約1,500名に達した。一家全滅家族が90戸という惨状であった。又、村内の建物のほとんどが戦闘により破壊された。


5月には米軍は首里を占領して、6月23日・・・そして、8.6(広島),8.9(長崎),8月15日の玉音放送へと歴史は動いた。



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Posted by sukebo at 07:21│Comments(0)OKINAWA
 
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