赤木圭一郎とジョージ君
小学5.6年の頃、姉に連れられて日活の小林旭の渡り鳥シリーズを観に行ったら、先週で終わっていて、
赤木圭一郎の「男の怒りをぶちまけろ」を観て、憑りつかれている。
石垣中1年の2学期から真和志中へ転校した。真和志琉映で赤木圭一郎の映画を観たら、クラスの不良たちがいた。
学校で休憩時間に・・・
「じんむちょーんな」お金持ってるかと、強迫されて殴られて腹を蹴られても、痛くない・大丈夫、金的とみぞおちを守っていた。
(ボクは我慢しているが、ボクがほんとうに怒ったら「おまえシナされるよ!」と「非暴力」で耐えていた。)
・・・不良の中には英語のテキストに「読めるように書け(ルビを振る)」から、「今日も書いてくれ」と頼まれもした。
・・・いいたくないが、ボクには兄が4人いて、学生服のズボンを兄たちのお下がりで、姉がミシンをしていたので直して、
アイロンをびしっと入れて、はいていたら、女生徒が見逃すわけがない。
不良たちの嫉妬の眼差しも感じていた。
母子家庭の「ジョージ」と仲良くなり、彼が転校しても文通を続けていた。
家庭の事情で彼はまた、戻ってきた。
・・・「不良たちに呼ばれたら、俺の名前をいえ」と彼に言われてから、その後不良に殴られる事はなかった。
彼も不良の仲間だったが?あの頃の不良には「義侠心」というものがあった。
弱いものの味方・正義の味方の「勧善懲悪」はあの頃の石原裕次郎・小林旭・赤木圭一郎の日活の映画でボクは学んだ。
2年で20本の映画に出演して、1961.2.21 21歳で事故死。
(その事故車には次にかまやつひろしが乗る予定だったそうだ)
トニーへ「合掌」
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