マッカーサーの三布告と軍票B円

sukebo

2024年08月28日 07:23

マッカーサーの三布告と軍票B円
Bs1の「昭和の選択」を観た。





敗戦国日本の決断 マッカーサー「直接軍政」の危機
 「日本國民ニ告グ」で始まる「三布告」この布告はすでに10万枚印刷されていて、占領中は英語を公用語とすること、占領軍が裁判権を持つこと、軍票の使用、の3点が書かれていて、ポツダム受諾の翌日9月3日の朝10時に布告することになっていた。

日本は大陸で軍票を出して、植民地の経済が崩れるのを知っていたから

 午前一時までマッカーサーと逢えずに、内閣から重光葵外務大臣が総司令部に赴き、
重光は翌日マッカーサーに面会し、「三布告」は撤回されることとなった。


 沖縄では戦後、5回も通貨交換が実施された。米軍が発行した軍票の(B円)のほか、日本円も法定通貨として認めた。その後、日本円のみを法定通貨とする時期もあったが、一般にはB円が普及。48年7月に法定通貨をB円のみとし、58年9月には米ドルへ切り替えられた。そして日本国への復帰でまた日本円へ(合計6回の通貨交換)

730 (車も左ハンドルから右へ、交通方法もアメリカから日本方式へ)

 琉球政府は、司法、立法、行政機能を備えた政府だったが、米国民政府は琉球政府の決定を破棄する権限を持っていた。
第1代高等弁務官、ジェームズ・E・ムーアから、2代目はドナルド・P・ブース(八重山ではおならのことをピーというので小学校の頃、ぴーぶーすと揶揄していた)3代目のポール・キャラウェイ(彼は琉球にとって「自治は神話である・自治神話論」や立法院で可決された法案を無視するなど、キャラウェイ旋風といわれた。)ワトソン、アンガー、ランパートと弁務官が6人いた。


 
昨年12月の「少女誘拐暴行事件」を
日本政府は沖縄県知事に知らせずにいた。
沖縄では米兵の起こす事件に、
県民は怒り苦しみ「コザ暴動」も起きた。
 
いまだに沖縄は、
植民地のままである。







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