うちなー芝居 (1)

sukebo

2022年06月13日 08:26

うちなー芝居 

戦後、テレビジョン(ネイティブは『田鍋じょん』と発する)が登場するまで、
うちなーんちゅは、「うちなー芝居」を楽しんだ。
1948年ごろから、平良進さんや平良とみさんが所属していた「翁長小次郎一座」は、
戦後は宮古島や石垣島で長期公演を行っていた。

格子の扉があって、左が外で、右がお家という簡素な装置を観客も知っていた。
観客が、感動して「おひねり」を舞台に投げ込むのを見て、ボクは石ころを紙に包んで、投げ込んだら
母に叱られた。

大宜見小太郎、真喜志康忠、翁長小次郎、与座朝惟、仲田幸子、高安六郎・勝男、久高将吉、島正太郎、
松村宏、北村三郎、親泊元清、北島角子・・・
大伸座、ときわ座、与座劇団、でいご座、俳優座、おもと座、乙姫劇団・・・などが記憶にある。
三大悲歌劇といわれる(伊江島ハンドー小・泊阿嘉・奥山の牡丹)
伊江島ハンドー小は天国の由人のオジーさん「眞境名由康」作。



米軍軍政下の沖縄では1950年ごろまで密貿易が行なわれていた。
与那国島などを中継点とする台湾ルート、香港ルート、奄美・鹿児島・宮崎・本土を結ぶ本土ルートがあった。
米軍にとっては、衣食住が決定的に欠乏している沖縄の現状下において生活必需品の流入は好都合であり、取り締まりを強めることもなかった。
密貿易の時代は与那国島は人口2万人を超えていた、現在は自衛隊の基地ができて、家族を含めても、2000人にも満たない。

沖縄からは、薬きょう、銅線などを運び、これを香港で、食料品(白砂糖、コメ、メリケン粉、飴玉、菓子、ミルク)、日用雑貨(石鹸、電球、洋服生地、ジャンパー、子供シャツ、ローソク)、医薬品(ストレプトマイシンやペニシリンなどの抗生物質)と交換していた。
1950年11月、政府管理貿易に変わって民間貿易が再開され、密貿易はなくなっていった。

「沖縄密貿易の女王 ナツコ」著者:奥野修司 第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞 ・・から。

金城夏子は逮捕されても、「私は少ない生活必需品を提供しているだけで、悪いことはしていない。」と話した。
与那国は「密貿易王ナツコ」のおかげで、町は不夜城で、一般では石油ランプの時代。
電灯も点灯していないのに、芝居用の
アメリカ軍のおさがりのディーゼル発電機も備わっていたそうだ。
教員の給与よりも、中学生が荷物を運ぶだけで、それをうわまっていた。
銀行もないので、天井には大きな袋が並んでいた。
ナツコは台湾人「林発」の無線機から、情報を得ていた。

与那国の飛行機凧



次は、うちなー芝居「真玉橋由来記」です。出演中の高安勝男さんが、新しい
お店の名前を相談に来た。アルバイトのボクたちが名前を「阿蘇古」はどうですか?
といったら、吞み屋の看板に阿蘇古とかいてあった。
アルバイトで裏方の苦労を学んだこと、美空ひばりの興行など、
乞うご期待。



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